村野藤吾の作品再見

 座かんさい 西村征一郎座長

【第3回村野藤吾建築設計図展カタログ3(2001年)】

村野藤吾の設計研究会のこと

平成12年12月4日から始まった第2回村野藤吾設計図展は12月16日に盛況のうちに終了し、同日の第14回の研究会は展覧会の打ち上げを兼ね、その反省と平成13年の研究会計画について意見の交換を行った。特に内藤廣氏を講師に迎えてのシンポジウムについては、事前のヒアリングをはじめ、O.B.を交えた「牧野富太郎記念館」(1999年)の見学ゼミ旅行を行っていたことも重なり、村野藤吾に関わる氏の見解も親しみやすく、本学松隈助教授の司会により魅力的、かつ活発に展開されたことに満足している。平成13年の第3回展覧会のテーマは、困難な経済状況の中でその処置が注目されている「大阪そごう」(1935年)に的を絞り、関連する内容を盛り込み進める方針とした。又、平行して関西を中心とする村野の作品群を、従来からの固定的な見解から離れ、できるだけ建設当時に関係された人達のお話を交えて、改めて見直してみようとする企画とした。それは、筆者のような年代で、永らく建築にかかわってきた者が、村野藤吾の作品を前にすると、先入観を含めある種の“かまえ”を感じるのが常である。しかし若い世代の研究会のメンバー、さらに学生たちが建築設計の経緯を知り、目前に展開する村野の空間に何を感じるかということを、いわば第3者的な立場(一般の社会の人々)での評価を知っておきたいことに起因する。このことは、DOCOMOMOの主旨にもつながるものであるが、社会のストックとなるべき建築の評価が殆ど建築界内部でしか語られることのないことへの反省とも言えよう。もっとも最近の建築関係誌(例えば日経アーキテクチャー)の中には、建築作品に対する利用者の反応を積極的に取り上げるケースも見られるが、欧米の市民による建築評価に質的に比較する迄もないし、結果的にパワーを持つことも少ない。さらに、筆者は、建築家の作品へのこだわりに加え、利用者(一般市民を含め)に対する深い思いやりが、時間を越えて、世代を越えて表われでるのではないか、そのことが評価に結びつき、さらには建築の持続性に大きな影響を持つことになるに違いないと考えている。

第15回の研究会は、平成13年3月10日、西島、東野両委員の御世話により「大阪そごう」と「浪速組本社ビル」(1964年)の見学を行なった。既述のように今年のテーマ「大阪そごう」の見学には、そごうの川手実氏に御案内願い、“改めて”「そごう」は何なのか、何があるのかという眼で追ってみた。まず、「そごう」は、渡辺節事務所をでた直後の村野の45才の処女作と言われ、呉服問屋そごうの近代化の上で百貨店(デパート)を目指す意気込みが新進気鋭の村野を選択したともいわれている。又、大阪市長関一による御堂筋の拡幅事業と同時期であり、既にヴォーリスによる様式的な大丸が隣接していた周辺環境を想定しておく必要がある。さらに、敷地拡大に伴う4期にわたる増築の結果や、GHQによる改変、返還後の修復と数次に及ぶ変貌を経た現在の姿であり、当然、初期の設計意図がそのまま継承されているとは考えにくい。又、現在も、戦後の復興期、高度成長期を通して百貨店が担ってきた、あるいは商業建築をリードし続けてきた、複合娯楽施設の痕跡も見ることができる。加えて1,008枚に及ぶ「大阪そごう」関連の図面には、内田雅章氏の指摘のように心斎橋筋側の改造計画が4次にわたり計画、すべて詳細設計までなされているが、どれも実現したものでない。このように「大阪そごう」は、誕生から現在の姿に至る迄、村野の“執着心”や社会に対する“意気込み”と共にあったのではないかと思われる。以上を設計経過の背景に考察を加える。平面計画上、百貨店のバックヤードを鰻谷通りに設けることは、御堂筋、心斎橋筋の間口を最大限生かす上で必然であり、その結果客用のEVコアは南面側となる。敷地が南側へ拡大された後の増築で、当初の客用EVコアはさらに南側へ移動。結果的に少し湾曲したEVコア跡の柱列とEVホール周辺の美しいアーチ型の梁形が残っている。大量の人、物が移動する百貨店は基本的に動線計画の十分な配慮を不可欠とするが、その売り場部分に内部空間上の決定的な意匠は必要でなく、主たる設計対象とは考えにくい。村野は、隣接の大丸にみる全館に及ぶ様式的なデザインではなく、この「大阪そごう」においては、客用のEVホールと主階段のタテ動線と、心斎橋筋、御堂筋の出入口部分に集約的に力を注いだのではないかと思う。心斎橋筋の出入口を含んだ空間の計画が数次にわたって練られていたことは既述の通りであるが、現在も美しい曲線からなる階段の残るこの出入口を「大阪そごう」の主たる顔と考えていたに違いない。又、多くの評価のある御堂筋側の立面にある出入口は、心斎橋筋側に比較し空間的には重視されていない。しかし、客の重要な通過点として現在の風除室の天井は、当時のEVホールの漆芸作家によるとされる壁面と共に、柔らかな独自の意匠を持って臨んでいるように見える。この風除室天井のモザイクタイルによる局面の扱いは、東京旧そごうの「読売ホール」(1957年)の側壁から、「日生劇場」(1963年)の天井にまで、さらには光に演出された荒々しい仕上げの局面を持つ「谷村美術館」(1983年)に迄及んでいるのではないだろうか。
さて御堂筋側の立面であるが、既述のような背景事情を考えてみると、ラジオの全面のデザインが発想のヒントという煙に巻いたような話は納得できるものではない。きっと、渡辺節風からの決別、大丸との対峙、拡幅された御堂筋景観の可能性の推測、西面の太陽光による効果、採光に必然性のない内部空間(売り場)、十分に引きのある大画面としての立面のもつグラフィックな効果等を配慮した総合的判断であったと推察する方が自然だと思う。筆者は特にこの大画面中のいわゆる“マリオン” を横に結ぶバルコニーや、中心を意識させる(もちろん中央でなく、機能的でない)太い幹、彫刻台座、初期の立面には無かった南西コーナーの2階ガラス窓等に、何故か“アムステルダムスクール”の諸事例を思い浮かべ興味がつきない。

同日、引き続いて「浪速組本社ビル」を見学した。小規模な事務所ビルであるが、周辺の大阪南独特の雑駁な環境の中で、本社ビルとしての建築のアイデンティティをみる。村野の作品の中で、立面に装飾的といえる付加的要素が繰り返し、連続して用いられる系がある。取り壊された「名古屋都ホテル」(1963年)や「日生日比谷ビル」(1963年)等であり、「新歌舞伎座」(1958年)も含めるのは、いささか気が引けるが、この浪速組本社は明らかにこの系列に入ると思う。この装飾的要素のスケールは、前面道路の幅員を含む周辺環境に応じていると見られる。華やかな正面に比較して裏面の素っ気なく割り切ったデザインは、旧大ビルの表と裏の表情の差異でも「ア、ソウ」と感じたように、“商業ビル” とその立地の判断にたつものであろうか。
今年10月、I,Mペイの北京郊外の香山飯店(1982年)を見る機会にめぐまれたが、◇型の開口部と付加的な書割状のレンガによるパターンの連続した壁面に村野を想い出した。もっとも中国のレンガ造の壁にうがたれた多様な開口部や、我国の寺社に見る肘木や斗-の連なりが基本的には構造的であるものの装飾的に見える印象にも近く、近代建築の連続窓やカーテンウオールに比較して違和感を覚えるだけかも知れない。
第16回の研究会は、5月12日に行なわれ、第14回に行なわれた活動方針の確認、12月の展覧会テーマ、シンポジウム講師の決定等が行なわれた。

第17回の研究会は、7月7日に安達委員の御世話で、村野が渡辺節事務所から独立する直前にかかわったとされる綿業会館をはじめ、旧大ビルまでの大阪の有名建築を見た。綿業会館では、中邉敏郎氏に丁寧な御案内をいただき、諸々のエピソードを伺った。筆者は、JIA近畿支部の事務局がある関係で、館には度々訪れているが、関係する諸室以外知らなかったのは不覚である。あの重厚な玄関扉の延長にある格調高いロビー、ラウンジ、それぞれ様式の異なる個性的な会議室、食堂等々、綿業会館の全容を一時に見学して初めて知った密度の濃い建築デザインの力に圧倒された。増築部分以外トイレにいたるまで、キッチリ図面が画かれていたに違いない。後の「大阪そごう」の数次にわたる改修案の図面を思い出しながら、このような建築デザインの考え方は、少なくとも関西の建築家(例えば、彦谷邦一、岩本博行等)に継承され、共有されるものになっていったのではないかと感じた。暑中の土曜日の午後、綿業会館に続いて、輸綿会館、ガスビル、東京銀行、新大ビルとたどり、旧大ビルにいたる。この懐かしい建物も、既に再開発が決定され、解体される運命にあると聞く。時代を映した光庭をもつ平面形には特徴は見られないが、太陽光に影響されることの少ない正面である北立面の密度の濃さ、格調の高さ、とりわけ北西コーナーの扱いに、端部あるいは際(エッジ)を大切にする建築家の本領をみる思いがする。後の「高橋ビル本館」(1970年)も旧大ビル同様事務所ビルである。端正なファサードデザインという以外、印象の薄い“貸オフィス”に比較し、階段をはじめ内部空間、ディテールにまで連なる存在感に改めて感じ入った。再開発で、この建築以上に人々を包み込み、このビルに事務所を構えることのできる優越感を与えることが可能であろうか。20数年前に、この1階廊下を日常の通勤に利用できた幸せをかみしめた次第である。土曜日のため入ることのできなかったが、新大ビルの屋上庭園が見事に成長したと聞く。最近の屋上緑化の傾向の40年も前に、オフィス空間の一部に、下階で働く人々の憩いの場として創出されたことは特筆されなければならない。緑の少ない都市をいたずらに嘆くだけでなく、情緒的にエコロジーを語るでもなく、どんな計画でも敷地内の樹木を徹底的に大切にしたといわれる村野がサラリとやってのけた名園が生き続けて、人々の“安心”を誘っている。

第18回の研究会は、8月25日神戸委員の御世話で、京都蹴上の「都ホテル佳水園」(1960年)を中心に、長年このホテルの数次にわたる建設にたずさわってこられた藤田隆義氏に諸々のお話を伺いながら見学した。筆者は地元のため、学生時代以来、このホテルを利用する機会も多く、前川國男の京都会館と共に、建築を学んでいく過程での原体験に近いものを得ていたのではないかと思っている。都ホテルの前身は、この近くの多くの別荘(住友、野村等)と同様、疎水インクライン事業にともなう南禅寺界隈の開発によるものと聞く。地下鉄の開通した現在と異なり、都心から少々離れた立地が1936年来、数度の増改築にもかかわらず、京都の“都ホテル”という確固たるブランドイメージと、東山を背景にするには「こう造るのだ」という景観を維持し続けている。この意味で既に教科書的存在になっていると思う。多くの客室・宴会場の建築的魅力については触れないが、このホテルの中核をなすのが「佳水園」と言える。それは配置図、平面図上の位置にとどまらず、高低差の大きな敷地の中央部分にあたる。低層、勾配屋根のこの建築が自然に馴染んだ都ホテルの“優しさ”と“奥ゆかしさ”を演出していると感じる。ホテル全体の建築デザインは、外部から内部のディテールの素朴さを含め、「志摩観光ホテル」(1951年)の方により多くの魅力を感じるが、海と前庭の借景以外、建築内部の要素にはそれ程ホテル的な多様な仕掛けは記憶に残っていない。「新高輪プリンスホテル」(1982年)の「秀明」も建築規制にもよるが、やや人工的に過ぎる印象を持っている。都ホテル全体に言えることだが、「佳水園」は背景の東山と何の障害もなく一体化し、まさに自然なのである。“和的”な表現を、祇園の御茶屋にみるような“濃い”ものでなく、か細い寸法の材をできるだけ大らかに使うという、利用者に押しつけがましくなく、ほっとする空間に仕立て上げている。木構造自体、数ある歴史的寺院をはじめ、それ程“優しい”ものではないと思う。台風で傷ついた室生寺五重塔の修復の現場を見る機会があったが、その構造的緻密さと力感に感銘した。通常、私たちが馴染んでいる公庫基準の木造住宅は“優しい”というより、最低限の木材使用量の勧めによる“貧弱”な姿であることを知った。例えば、屋根を受ける垂木の適切な部材寸法と間隔は45角、@450が当たり前という程度の底の浅い知識なのである。韓国の古寺の垂木に曲りのある自然木が使用されているのをみて素朴さしか感じなかったのも浅はかであった。藤田氏の説明の中、佳水園の軒裏にみる垂木の部材寸法と間隔が、鉄材の補強を加えてもあの見かけにしたいという建築デザイン上の村野の強い意志に驚嘆する。当時、とかくの評判であった、瓢箪型に強く印象づけられる庭は健在である。しかし、昔の記憶と異なり、何となく庭が狭く感じられる。昨年、研究会で講師をお願いした重森千-氏が、「新高輪プリンスホテル」「千代田生命本社ビル」(1966年)の村野藤吾の庭について語られた中で、“庭は、樹木は生きているから、どんどんその姿を変える。だから庭のメンテナンスは、当初の設計者の意図を十分くんで行なう必要がある”との言葉が気に懸かる。「佳水園」の織りなす銅板屋根の変化は、当初に比較して美しくないと思う。しかし周辺の緑は40年の間に大きく、たくましく成長しているのであろう。遠目に見る「佳水園」が、何となく、くたびれた様子に感じられたのは筆者だけであろうか。村野藤吾の設計研究会では、見学の後、できるかぎり感想会をもち意見の交換を計っている。この日の感想会の席上、藤田氏が、
“村野さんならこんな情けないことはしない”と会場のインテリアデザインを評された。都ホテルの他に比べ、ピリッとする印象の小宴会場を村野のデザインの多様さと信じていた筆者は唖然とし言葉が無かった。永らく村野に関わってきたつもりで、何もその本質を理解できていなかったのではないか、という苦い思いで情けなくなった。逆に、村野の建築は、それ程深く、批評家的な表層の観念的な解釈では永久に追いつくことはないのかも知れない。

第19回の研究会は、10月20日に大平委員の御世話になり、村野藤吾の多くの作品を中心とする関西大学の見学を行なった。この機会には、村野事務所で長期にわたり関西大学を担当された斉藤格司氏と、関西大学施設部の市原淳氏に御同席いただき、見学ルートにそって、諸々のお話を伺うことができた。50年にわたり村野の足跡が残るが、関西大学は私学の大規模大学であるから、他の事務所、ゼネコンの設計した建物も混在する。又、老朽化や教育施設としての機能改善のため、改築・改修もやむなくキャンパス全体の景観も変化が続いていると聞く。特に、全体的なマスタープランが当初から確定していたのではなく、千里丘陵に次々に敷地を求め、必要に応じて施設が増設され、現在に至っているらしい。基幹設備をはじめ、構内道路の計画が、敷地拡大に対応して再検討を強いられたことは想像できる。しかし、昨今の新設大学の構想中、当初から明確なキャンパス計画を持っている事例に比べて、敷地の大きさ、高低差、植生景観も含めた制約条件の下、まさに臨機応変に対応することが余儀なかった関西大学のキャンパスの持つ魅力は大きい。それは、一般にヴァナキュラーと称される自然発生的な人工物がもつ様相と同質のものに感じられる。悪く言えば、全体の都市計画がないまま、あるいは意識されないまま、時々の力関係や欲望により建設が進み肥大していった町に似ている。しかし、ここでは、変化の場面毎に、既設のものや自然に対する十分な配慮(読取り)があった結果であろうか、キャンパス全体が変化に富んだ多様性を示しながら破綻が見られない、高低差がある広大なキャンパスに点在する施設を全て訪れることは適わなかったが、主要な村野の手によるものは概観することができた。それらは、機能的に一般教室・研究室棟と図書館・体育館・その他の特別教室棟に大きく分けて見ることができる。一般教室・研究室棟は、形態的には他大学と同様、通常の箱形の建物であるが、村野の建築として、以下の数点の特徴が指摘できる。棟の平面形は敷地状況、必要機能に応じ種々あるが、アプローチ部分(玄関ホール)は、どれもゲート状に開放的(ピロティ等)で、階段、スロープ、装飾壁による華やいだ雰囲気をもつ。教室・研究室の単位からスパンも規定されるので、開口部もグリッドに応じたものになるが、「早稲田文学部棟」(1960年)同様の柱・梁型を見せる連窓のタイプと、いわゆるポツ窓(タテ長のプロポーションが多い)のタイプがある。外装は総じてタイル貼(一律ではない)であるため、サッシュの改修等を含んだ維持にも十分対応して美しい表情を保っている。特に、増築を重ねた結果も含め、それぞれ微妙に異なる校舎群から生じる中庭状のオープンスペースが、関連分野ごとに個性的な雰囲気を造り上げている。一般的に、このような部分は採光のための単なる空地に過ぎない空間になりがちである。しかし、ここは魅力的であり、諸々の計画にも大いに参考になる。同時に、エストベリのストックホルムの市庁舎の中庭の扱いの凝縮された姿を見る思いがある。もちろんこれらの特徴に加えて、窓面と壁面の収まり、パラペットの処理、階段やスロープの手摺等々のディテール、壁のテクスチャーや色調が十分に吟味され一層の効果を上げているのである。
その他を全て特別教室群として、特徴をまとめるのは困難であるが、大方その建物自体の機能が単一で、その制約条件から建築形態が創造されてくる種のものとする。ほぼ円形の平面の旧図書館や岩崎記念館、ほぼ四角の平面であるが大スパンの講堂や体育館の類である。これらは、一般教室棟のような共通した要素をもつことが無いため、自由な、ある意味ではもっとも村野的な建築と言える。さらに、これらの建築は景観的にキャンパスの核になる位置を与えられている。建物のスケールに応じて、又、敷地のあるがままの自然な状況に応じて、建物周辺には十分なスペースが用意されている。生長した樹木と共に“自然”に溶けこんでいるが、建物それぞれの表情は、機能・用途に応じ、周辺状況に協調するように華麗なものから、荒々しい壁面や巨大なスケールをもつもの、さらに材質や色調の相違まで多様というより互いに関連する要素は見られない。それにしても、1951年の紅葉したツタの絡まる岩崎記念館から、最近の建物まで、自然の生長と共に、時を経たキャンパス景観のもつたたずまいの充実感は表現しがたい。キャンパスのあちこちに展開するシーン(シークエンス)は、一時に、あるいは同じ思想のもとに設計された都市や学校のキャンパステーマパーク等の表層のデザインによる底の浅いものと対称的にヨーロッパの古い小都市を散策するような心地良さ、豊かさを感じる。見学途中、バッタリとお会いした関大の川道教授と同行のコーネル大の教官夫妻とは感想会まで御一緒いただいた。“手造りの魅力”や“写真よりスケッチの強さ”等の話題に花が咲いた。また、御案内いただいた斉藤氏から直接お聞きした建築設計の心構えの3点(小さな部分から大きな部分に連なるデザイン、設計の集中力・力の強さ、文化・教養が背景に不可欠と筆者は解釈)は同行の学生たちにも十分説得力のあるものになったようである。

平成13年5回の研究会に加え、10月3日にはゼミ見学旅行と称し、糸魚川の「谷村美術館」(1983年)を訪れた。筆者は2度目であったが、人気のない、この小さな美術館に時間の制約もなく十分に堪能することができた。又、何よりも11名の学生が、まさに興奮状態で、館内外を歩き廻りあちこちにしゃがみ込んでスケッチをする姿に驚いた。旅という日常にない心身の状態と、自分達だけの瞬間的な建築空間という特殊な条件を差し引いても、他の建物の見学時の冷めた様子とは全く異なるもので、最晩年の村野の作品に漂う何か“鬼気”のような、ただならぬ雰囲気を体で感じていたのだと思う。谷村美術館の立地は、日本中どこにでもある田園地帯の一角にあり、“和的”な回廊で視界を制限された“境内的”な空間にある。展開する一群(に見える)の建物?それも平屋の小さな平面で、回廊部分の木造、瓦屋根を除けば、開口部以外どこも同じ単純な仕上げで造られた空間の連なり。彫刻家澤田政廣の作品展示に、これほど小規模の空間のデザインで応える。?これは通常の“美術館”と呼ぶビルディングタイプを明らかに越えている。全体が澤田と村野の共同の聖なる彫刻作品、あるいは環境芸術か。さらには、人間という動物が遺伝子的にもつような、原始の心に共鳴する建築なのだろうか。初めてみたコルビジェのロンシャンの教会を思い出していた。小さな教会を興奮して小走りでめぐり、できるだけ、この空間のもつ雰囲気を体に染み込ませたい、全てに触れてみたい思いがあった。建築が人に“感銘”を与えるというのは、決して事前の専門の知識に依るものでなく、普通の人がその場に触れて同様の“感銘する”気持ちになることだと思う。ヨーロッパや我国の寺院建築の内部空間には、自身の信仰に拘わらず、十分に宗教的、感動的な喜びを与えてくれるものも多い。谷村美術館にはこれらの経験と同様の感銘をうける。
“建築に感動する”論はおいて、谷村氏をスポンサーとするこの館の建設過程における多くの図面、写真(建築を学ぶ人達のため別室に展示されている)にも教えられることがつきない。建築イメージを確立するため、平面からすぐ粘土模型をおこし、模型から構造の可能性を探り、さらにその構造計画から余剰な部分を空間的にうがっていく。関西大学の講堂でも見た3次曲面の一部になる垂直でない壁面は、外部の形態の中心をなすが、内部では仏像を包み込むような一種のアルコーブのように働いている。中年の太鼓腹にも似るが、清水九兵衛の鉄製の彫刻の曲面との類似を感じる程、素材をこえ粘土を削りだした形のままの有機的な柔らかさをもつ。一方、仏像彫刻に光の効果を生む仕掛けについては、この建築の最も重要なディテールで、既に論及されつくしている観があるがここでは、“仏像”でなく“彫刻”への採光の意識が強いように思うことを指摘したい。私達が通常馴染んでいる、仏像が光を受けている状態は、概して水平ないしやや下方に近い光によるものである。そのため“仏像”という意識が前にでると(現にここの澤田彫刻の仏像に手を合わせている人々も見かける)、例えば仏教国タイの寺院に見る金箔の仏像に接したときと同様の違和感を覚える。しかし、ここは美術館であり、アートである像が主として上方から光を受けても澤田彫刻の意図に合致すれば問題ないと思う。現に、ゆるやかに仕切られた曲面壁に包まれたような部分で、スケッチする学生の姿もすっかり、その場に収まって見えるから不思議である。

翌日、10月4日、このゼミ旅行は長岡市に向かった。小規模な地方都市であるが、公共施設の数と規模の充実度は卓越しているように見える。ただ、著名な建築家の手による“無菌室”のような建物の前で、やたらにげんなりと疲れた様子の学生たちの姿を見て“谷村”の刺激が強すぎたかなとその食の細さに同情しつつ、「それ見たことか」と過敏にすぎる情報時代の申し子を谷底につき落としたい衝動にかられた。

改めて、「有楽町そごう」(1957年)を見る。JR有楽町駅の一部に見える程、ホームの風景となっている。この建物に、今まで実は一歩も入ったことがなかった。百貨店としては小規模な3角形の変形敷地に、肩をいからせた裃姿の武士が、眼下の都庁を睨み付けているよなイメージが残っている。既に3面のうち1面は、新店主の広告面に改装され、内部も昔の面影は全く無くなっていることと思う。何らかの痕跡を求めて徘徊したが、客用EV周辺、階段手摺、踏場の便所が、それらしいが定かではない。外壁の有名な横連窓も、便所以外建物内部には有効に働いていない。それだけに階段踏場に顔をみせるガラスブロックの窓が、周辺の甘ったるく内装を施された壁面の中で著しく異質にみえる。開演を控えていたが、短時間の間に読売ホールが健在であることを確認することができた。下階の変貌とは全く異なり、ここには未だ“村野”が息づいている。特にホール内部は、1層目から2層目に連続する馬蹄型の客席のウイングが流動感を生み、音響に配慮した側壁の黄金色系のモザイクタイルの曲線が控えめであるが華やかさをそえている。立地条件が抜群であることを差し引いても、この親しみやすい小ホールが稼働率の上でも健在であるとの説明に、自分のことのように安堵する。ここでも村野は、しっかり生き続けている。

さて、平成13年研究会の当初の方針どおり、それこそシャワーのように村野の作品を浴び続けたが、1人の建築家の、それも長期にわたる作品の数々を21世紀の初めに集中的に体験できたことは、筆者にとってかけがえがない。又、何度も訪れ、その時々に刺激を受けてきた建築家の作品群を、ある時代の、きわめて特徴のある社会状況を背景として総括的に記述できることは意義深いものと考える。今後、建設当時の評価を社会や他の建築作品を含んだ形で行ない、村野建築の継続性、持続性の解明を続けるつもりである。ここで、既述のように、長々と続けてきたレポートに設定している視点についてまとめておきたい。村野藤吾の作品は“皮膚の建築”だとの指摘がある。一方、フンデルトバーサーは“人間は5つの皮膚をもつ”と魅力的に語った。筆者は、前者のように、村野の作品の部分に幻惑されたくない。例えば村野のデザインする家具や照明器具、把手や金物、カーテンにいたるまで、プロポーションやアールの曲率に特徴を見る指摘である。後者は人間にとってこの環境を、人間の肌、衣服、家、国、地球(自然)とするが、現実の都市環境の中での具体的な設計の考え方となると氏の作品のように一面的な情緒性に物足りなさを覚える。
村野にとって建築が人間を包み込むように存在するのは当然であり、ここに柔らかい曲線による優しい内部空間がある。そして山野の風景の中では、自然が人工環境を包み隠してくれるように、円形平面に代表されるような植物に類似した建築が望ましいと考えていたと思う。この2つの傾向は、例えば、前者は家具・カーテンに代表されるインテリア、後者は「箱根樹木園」(1971年)系であり、多くの村野建築に共通し、それ程異論はないだろう。問題は、その中間に位置するもの、特に都市での、あるいは人工環境内での建築形態についての分析である。それは、外部の環境から建築の内側の空間(大方、人間のための空間)を守るための結界としての形態にあるのではないか。隣接建物も含む、この外部環境に対し、これを是とするか否と考えるか、あるいは同調するか、対峙するか。さらには近景と遠景によって形態のもたらす表情の差異もある。代表的な事例について概観する。先ず谷村美術館は平凡な田園風景に明らかな結界 (“和的”であり拒絶的ではない)をもつ。その内側に柔らかな自在な形態の世界が展開する。さらに入子状に胎内的な内部空間にいたる。名古屋都ホテルや浪速組本社の装飾付加的な窓は、雑駁な近隣環境への近景での同調とみる。一方、遠景においては、この個性の強い窓の連続感は、特に陰影をともなうことによって、より強調され、混雑な都市景観にあって、1つの存在感のある外観を造り出している。「宝塚の教会」(1966年)では、おそらく将来共に変化しない住宅地と線路敷を是とし、地域に共生するシンボルとしての形態であり、筆者はここでもアムステルダムスクールの建築にみられる集合住宅のシンボル的な塔の扱い(例えば、M・デ・クラーク)を連想している。「新歌舞伎座」では、周辺を否定あるいは無視して孤高を保っている。最も一般的な連窓をもつ外壁(例えば千代田生命)は、結界として、内部(室内)の保護に加え、外部環境に対し影響を受けることなく、毅然と表情を構えるのである。
最後に「大阪そごう」について心斎橋筋側(東面)は、必然的に、近隣環境を是とするファサードである。内外の商業空間の魅力度の差異をいかに高めるかという点で、結界のデザインの考察を続けたに違いない。御堂筋側(西面)は開口部が内部と殆ど連動することがなかった意味を含め、結界としては、御堂筋と大丸に対峙している姿と考えられる。しかし、同時に現代のカーテンウォールやルーバー状の無表情な“フラット”な壁面を排し、時代の要請を加味しながら、ヒューマンな企業イメージを奏でる大画面に仕立てあげたのであろう。

(にしむら せいいちろう・村野藤吾の設計研究会委員長・京都工芸繊維大学教授)