素描-石井春(石井春個展カタログ寄稿文)

 ポルトガル国立アズレージョ美術館の石井春個展(2017.9.1~2018.12.31)残念ながら体調不良も重なりオープニング欠席。1年程前に書き始めた作品論、気合いを入れたつもりだったが、所詮、建築の設計側からみた作品の印象雑感。読まれる方の専門(興味)を考えると少々“マトハズレ”かも知れない。以下に「石井春個展公式カタログ寄稿文」全文を転載します。 

建築美術工芸同人 座かんさい座長 西村征一郎

(写真選択/編集 座かんさい同人 今北龍雄)

素描(石井春)

■印象

活動の場を、東京から京都そしてポルトガルと広げるエネルギー、それにともなう諸々の気苦労を彼女はまるで楽しんでいる様にみえる。自然環境の変化、モノツクリへの思い入れを共有する国際的な多様な人々との絆。作品に見せる大胆さと繊細さとユトリ(間)はきっと体感から生みだされるものだろう。具体的にはアートを通して「こどもが育つ場」をつくるという経験(教える―学ぶ)は、こどもの感性が開花する方向に伴走するという心構えを生む。社会的弱者になったこども達の施設に協力した彼女は、建築空間の意図を理解・継承してキラリと輝く「夢」を作品に託したのではないか。タイルによる地下街の改修は、通過し、立止る人々に単なる動線を越えたホッとする場を提供する、無性格であった空間に小さなタイルを寄せ合せたオブジェをていねいに挿入することで周辺の空気を変える。具像の魚を描いた4枚のタイルは、和室の床の間にあって“滝登り”的躍動感や季節感まで発するのである。

代官山の個展会場は、ヒューマンスケールに分節され、鑑賞者の移動と共に展開するスペース(多目的なギャラリーとして無性格な仕上)。ここでの作品展示はこの空間をいかに研究・検討したかを示している。島状3ヶ所にタイル群構成のオブジェを展示。建築とアートのこれ程見事なコラボレーションを知らない。後述の“包む”カタチである。これらの事例―わずかであるが―から、石井作品の魅力は“こだわりの多様さ”にあると考えている。この多様さは、いわば環境適応能力の魅力であり、他者との馴染み良さ(共存)が、作品に見事に昇華したものといえる。アートに対する人々の感性、個と公、地方差(日本国内)、ポルトガルとの風土差、枠組みのある建築空間を越えるものである。
一方、装飾的扱かいのタイル貼は、彼女の美意識になく、その可能性を追求した作品は、アートとして基本的に固有の表情をもち、繊細に躍動する。

それでは、作品にみる“こだわり”の要素は何に由来するのか。
風景(環境) 細長い日本列島は火山列島でもあり起伏に富んだ自然風景をつくる。海・陸、山・谷、河川、加えて里山、鎮守の森、防風林、みち、田畑、人工の町、寺社。全国各地にそれぞれの個性があり独自の風景となる。特に勾配瓦屋根の連なりは素材・形状と共にウラ・オモテの光の効果をともない日本の風景の特徴をなす。まちなみ 人はそれぞれ、まちの記憶をもっている。例えば、アズレージョで埋めつくされたポルトガルの歴史的建造物、街並の濃厚な空間にジャカランダとファドが色を添える。北海が青く輝く。夕陽の感動。アムステルダムの破風屋根の続く運河沿いのまちなみ景観は土木的な必然(運河の掘削と造成地、間口最小限の宅地割)と聞く。隣家と異なるディテールの工夫が連続して美しいが当局は変化に乏しいと評した。京都のまちなみは全体が統一されていて当然とする、平入り瓦屋根、木軸、土壁だが隣家とは微妙に異なるが印象に差はない。しかし、経済至上の世界では、立法主旨の弱い法をクリアするだけの現代建築がまちのフレームを無性格に変えていく。アート作家にとって無縁ではない。

和風(造作) 特に枠取りされた間(スペース)が潜在的な美意識になる。限定された茶室の空間でなくても、可変な仕切(襖・障子)による和室の連なり。人のスケールと各所の空間の対比、プロポーション。襖絵、屏風、床ノ間、タタミとオブジェ(建築材、床柱、軸、花、道具)。内外空間の流動性(可変な自然光)。木割の木造真壁、土蔵造(大壁)に穿たれた開口部のリズム。技(術) 作品は主として、多様に表現・展開されるヤキモノ(≒タイル)であるがその形状はシンプルな四角形を基本とする。しかしその個性はタイルの釉薬による絵付にとどまらない。制作意図に従い、立体になり、群となり、余白(間)をともない、人々に発信される。自在なタッチ、色調、多少の素材感、異質な材とのせめぎあい。いわゆる美大系の専門領域にとらわれることなく、その技(術)を普通に駆使できる自由がある。さらに、これらがもたらす、こだわり(美意識)を抽出(筆者の独断的想定)分野を問わず検討を加える。総じて「体験を通して学ぶ―記憶」がこだわりに一貫している。

■包む

平面的なアート(絵画、壁画、軸、書 他)では鑑賞は概ね―方向である。彼女のアートは周辺の空気を含め包みこむ。中身の濃い、薄いのリズムをもちながら、いや緊張感を漂わせ柔らかく包む。壁面のオブジェにとどまらず、建築も家具も人も、光すら包む、無数の視点がありながら包みを支える要は見えてこない。「包む」という行為は、一般的に包む対象(モノ+空気)を包む材(フロシキやダンボール他)により、目的(場づくり、流通の利便性、売レ筋)に合うよう工夫される。包む対 象がヒトの場合、包む材は皮膚、衣服、住居、国等々何重にも重なり環境をつくるとされる。包む材は広義には境界線であり、海と陸(日本列島)、屋根筋や河川(県境)、外壁・塀・門にいたる。その境界が鳥居のようにアイマイなことも多いし、越境(混在)という意識も様々である。さらに包み方がある。包む対象を保護するため、充填材は不可欠であるが、アイマイな対象(空気、不整形な彫刻等)の場合、包む支持点は目的にとっては少ない程有利に思える。それが余白の価値。「余白あるいは気の存在」樹齢数千年といわれる樹間に展開する伽藍に感じる気配(奈良玉置神社)。古墳の異様な壁画に囲まれた石室に漂う気(熊本チブサン古墳)。人工的な建築物、絵(模様)それらに気(余白)が加わり結界の中に包まれ、造りだされる全体像(イメージ)は数多く体験している(禅、宗教空間)。

■こどもの自由

こどもが育つ場の目標として「個性」が最重要とされ、具体的には体験・自己決定・共同作業を通して得られるべきだとする考え方がある。又、こどもの施設(保育園、幼稚園)での体験談によれば、こどもと先生の“直感的”関係、“カクレタイ―ミツケラレタイ”や“回転”運動(リトミツク)の遊びで日本と中国(上海)に共通性があるという。これはアート作品と展示空間の関係にも類似すると思う。こどもの体験は大人の原体験である。彼等が描く世界(絵画)を羨しいと感じることも多い。感覚は児童心理学に委ねるまでもなく「自由」なのである。こどもの「自由」から学ぶことも多い。彼女のこどもに関わる心構えもそのひとつである。

■体験に学ぶ

共有・交感 人間の知覚能力は高・低は水平より劣り(左右の目)、視力的(通常1.5程度)に35Ⅿ以上離れると対象の表情は判断しにくいとされる。アート作品のスケールは当然それが設置される場に制約される。生活の場、オフィス、公共空間、屋内・外それぞれ。
大仏殿(東大寺)に代表される仏像と内部空間の関係は、宗教上の意味(スゴイ→祈り)以上にアートを感じないが、北円堂(興福寺)のそれが分り易いのは、像と空間がもつバランスに加え、鑑賞者のスケールと素材(木造)による親密感にあると思う。

石の彫刻は野外、特に自然(樹木、土、水)の中でオサマリが良い、太古から存在するようにまさに“自然”である。しかし、都市(建築物・構築物)にあっては、それらと対比的な“自然”を代弁するような印象をもたらす。手を伸して野生に触れたくなり、寄り添いたくなる。
彫刻そのものの価値は、抽象的な形態であっても、環境に働きかける作家の細部にいたる感性と意志の強いエネルギーがあってはじめて人々に感動が伝わる。

科学的な安全予測は安心(心安らかな状態)をもたらすとは限らない。不確実な自然現象に備えるのは基本的に“こころのつながり”と考えたい。体験を共有することで、そこに生ずる感動に共感する機会を得る。それを交感―仲間とのつながり感―とも言えよう。新幹線で富士山の姿が見えると、車内の客の間に一瞬和やかな空気が漂う。その中に自分が居ることを自覚したキモチヨサはしばらく続く。

作品の大小は、背景の状況により、あるいは作品と鑑賞者の空気を包みこむ距離により、全くの自然の山中、広場、庭、建築(大、小)、内部(公、私)それぞれに応じた“キモチヨイ”世界を造りだす。作家の目、鑑賞者の目。制作中の楽しみ(愉快感)は苦しみにまさり、夢中になることは、本能を開放する意味でこどもの“自由”(行動)と変らないと信じている。作品に目的意識(欲=受賞、商売他)が強過ぎるとストレスとして他者に伝わるときく。

日常生活の中では、知識としての“美しい名作”より“キモチヨイ”が最も自然な反応で制作過程の想像と成果を総合した評価である。オリンピックや高校野球が必ずしも勝敗に関連なく与えてくれる感動に近い。何気なく出会うアートと展覧会(情報)として構えて“鑑賞”する作品の場合で、気持の入り方、高まりに差異を感じることが多い。先入観(知識)と体験の重さの違いは服装の選択や旅行の記憶などにも共通する。“日常的”なアートはむつかしい。

■ホンマモン(正道)へのこだわり

建築、特に住宅の設計について生活者(利用者)から批判が多い。そこで目立つのは“使いにくい”につきる。その主たる原因は限られた知識としての設計の夢と設計者自身の体験からなるデザインの矛盾。多くの建築家の自宅(マンション)は“美し過ぎる”。しかし、“普通の”生活感に欠ける。どこかの映像をみるような知識のインテリア。聴竹居の工夫・苦労から椅子座が当り前になった現在でも、上下足分離の生活習慣とその空間は話題にもならない。特に“マンション”のハキ替えスペース(玄関)はビジネスホテルの客室入口と大差ない。

石井春さんのアトリエ兼自宅は作品の相似形のようである。生活の主張とそのオサマリは一見して彼女の作品を解説する。建物外壁に金属製スクリーンや有孔ブロックを設けて、開口部やサッシのオサマリ、設備機器等を隠すことがある(包み方)。木造町家の道路側の面格子の役割が原型かも知れない。特に煉瓦状の焼物(タイル)は、金属やガラスの画一的なオフィスビルに手仕事の温もりを付加する意図を感じる一方、“はやり”のデザインに過ぎない観もある。ソトヅラ(外面)だけでなく、オフィス内で働らく人々のため、環境を自由に、個性的に、キモチヨクするため、アート的間仕切等の発想はないものか。“貼ったタイルはいつかは落ちる”から逃げるのでなく、彼女は接着剤の専門職を含んだ“タイル研究所”の夢を語る。まだまだ“体験に学ぶ”コダワリは続きそうである。“体験を通して学ぶ”、それが記憶に結びつく。人々の体験に寄与できるのもアートの使命であろう。

こどもの頃、ピカソのゲルニカ(レプリカ?)を見た時の感動を超えたショック(戦争の悲惨)は現在も続いている。理論でなく、発信する見えない力の存在がアートに求める原点ではないか。建築では、知識先行ではあったが、コルビジェのロンシャンの小高い丘に建つ教会に出会った時以来、この建築を忘れることができない。造形上の要はシルエットとディテールと学んだがアートの共通点でもある。
将来建築を目指す学生の実習室の無性格なカーテンを、復活したウイリアムモリスのデザインのものに変えたことがある。デザインを先達に学び、つなぐ“こどもが育つ場”である。

コンビニ文化の現代はプラスチックケースに入った“おそうざい”が立派なダイニングテーブルに並ぶ(弁当文化?)。食の場(生活空間)の食器や盛付けを含めた変質はクールジャパン(日本文化ホメ言葉)や古民家(生活の歴史)の継承のためには、アーティスト達の日常と仕事(職能)の差異の意味で赤信号が灯っている証しかも知れない。

彼女がアズレージョ製法によるアートに限った作家でないことは先述した。陶芸、絵画、彫刻、書、漆芸諸々のアート系のものつくりに挑戦し、戦果を上げ、建築家の意図する空間を理解してコラボレーションできる。何より、新たな挑戦を繰返す彼女にはホンマモンに“学ぶ”姿勢が貫いている。「学ぶ」対象は、知識を越え、アトリエ近辺の寺の庭の季節の変化を体感する日常なのである。それは3つの活動の場の風土的、歴史的体験を含め、生け花の世界から能楽の「気」にも及ぶ。

■覚悟

作家は「ゲルニカ」のピカソの闘志を目指し、社会状況から目を離すべきではない、否 それを対象に“自由”に自分の思いを発信していく責務がある。こどもの自由な感性が育つため、彼等に伴走していく覚悟も望まれるのではないか。災害列島化した日本をはじめ、世界各地でおきる悲劇的な状況の中、人々が心安らかな日常を送ることができる“安全”を補完する役割がアート(芸術全般)に求められていると考える。

石井春さんの作品について関連すると思うことを雑多に述べてきた。現実に20年にわたるポルトガルとの諸々の交流の実績は、彼女のアーティストとしての人間性を基盤に、ある程度の揺れ幅の中で作風の進化又深化につながったに違いない。彼女がこれからも長く続くレースの中先頭を守り切ることを期待する。東京―京都―ポルトガルの三色の光が同調し、一層透明感を増すなか、独自の光が虹の様に輝き始めている。世界の文明の中で、互に辺境に位置することを意識し、あえて特化するが、それらを安易に混ぜない。いわば、その地の記憶の重なりを明白に示すことをねらって欲しい。かたや、世界のアートもデジタルなオークションの対象となり、世界文化遺産も観光資源化、自由に文化を共有し、交感する理念に程遠く、現実社会は甘くない。

西村征一郎(京都工芸繊維大学 名誉教授 建築家)