座かんさい土曜塾2018 東北縄文ツアー 雑感

ついに縄文ブームは、「天声人語」(朝日新聞 2018.8.31) に迄及んでいる。やはり岡本太郎の現代アートとの比較・糾弾がこのブームの起点となるようだ。一方、縄文1万年の美の鼓動展(東京国立博物館) に関しては、芸術と考古学を並列して展示する危険性の指摘もあった。「縄文時代に作家や芸術家は1人もいません」とも言われる。

筆者は、縄文美術にはスーパーな力(超越)がのり移っているような “ 気 ” (神がかり) を感じる。それは、笑顔(死者-特に子ども-を送る) の土偶板と蛇神(生命-出産-の期待) の土器・土偶への装飾の形(仮面?) にある。

1万年の縄文遺跡は日本各地に点在するが、地域間の交流もあったとされる(原産地研究) 。共通性のある土器・土偶(笑顔・蛇他) は、多様な各地域の縄文人にとって “ 共通の言語 ” 的役割もあったのかも知れない。

“ プロの作家(リーダー) が存在しない ” ことにいくつかの疑問もある。(1)縄文人には格差やエゴの意識はなかったのか?、(2)考古学情報による縄文人の前歯の化粧は土器の意匠と同等?(美意識) 、(3)縄文人の営みにみる表現(住まい~狩猟用具諸々) は気候変動の結果、生活と共に絶滅したのか?(継承性) 等々。

国宝とはいえ、発見された遺跡の資料(考古学上) は、レプリカ(装飾≠芸術) に近く、制作の意図、環境を含めた評価は不明である。生活関連とされる諸々の資料は人体尺度に近く小規模なため、一般的な展示空間に馴じみにくいが、逆に原寸に近い写真の情報・演出(カタログ・ポスター) に圧倒される。考古学上の展示と美(アート) の感動を期待する場の一体化に無理があることは、青森の三内丸山遺跡と八戸の是川縄文館で明らかである。考古学上の研究・解明が縄文「美」の “ 何故? ” や、現代の私達がうける “ 感動 ” には結びつくことは少ない。むしろ夢(空想) を交え、その魅力の根幹をさぐってみたい。

「半分青い」(NHK連続テレビ) が芸術の日常を脅かすとの批判を目にした。エゴむき出しの競争(筋書きに) は逆で、日常を大切にできる人間でないと芸術家に成れない。さらに芸術は自己実現ではない。芸術によって実現し、輝くのはあなたではなく、世界の外側なのだと続く。肩肘張った言い回しだが、“自己実現ではない”は〈芸術家仲間〉への忠告ともとれる。縄文時代に比較すると、プロの作家や芸術家は文明社会(有史社会)が生んだ専門職かも知れない。

筆者も、もちろん縄文ブームの渦中にいるが、土器や土偶の持つ魅了は“圧倒的”な写真情報を超えた、その風土(想像上の生活環境)と共にあると感じている。“絵には永久に生きている魂が残る”の言の逆の解釈かもしれない。発信側も受信側も多様さが当然とされる現代社会でも“あなたの日常はわたしの非日常”のコピーを目にすると、人々の共有や交感の意識、合意形成、コミュニティの育成、コラボレーションからシェアまで理解は簡単ではない。むしろ、それが“多様性の本来の姿”と覚悟すべきである。一方、素面の多様性を超越する、能面に見るような仮面性も経験する。「笑い」や「遊びの中の仮面性」については、既に哲学的論及知られているが、縄文の美を思うとき、鑑賞者の多様性を超越する役割(仮面性)こそ芸術(アート)といえるのではないだろうか。

縄文土器・土偶の制作意図・プロセスを想像してみる。そのため〈敢えて〉“圧倒的”な詳細のわかる写真の模写を試みる。自然な非対称が目立つ(ウズ巻模様、縄目、タテ線割付等々)。作者が狩猟の対象を表現するとき、素描的には忠実(リアル)に見える。しかし、人体(妊婦)では制作には別の意図があるように思う。土器には「笑顔」的な感情が圧倒的に多いようだ(現時点で)。縄文ファンが多い要因かも知れない。(世界には石面に線刻された“笑顔”も発見されているらしい)“人は楽しいから笑う。笑顔をつくるから楽しくなる”という。笑顔(≒キモチヨイ)は人として生まれた赤ん坊から始まる。

縄文展の対象となる土器・土偶は素材上サイズは限定される。その中で具象と抽象、リアルな描写と誇張・省略、模様が混在する表現が何かを物語る。仮面性を思うユエンである。仮面はそれを付けている者の素顔(個性)を消すと共に「願い」を表す。化粧が原点だろうが、その共通性は同族(仲間)の証しを示す。さらに既述のように、イノシシや魚等々の写実的表現にくらべ、人の表情を描くことは“笑顔”以外避けていると感じる。いわば表現された姿全体が物語をもつ「仮面」とも言えよう。蛇の生命力が蛇身として扱かわれ、土器の注ぎ口やトグロ状の模様等の表出。“遮光器”とされる眼鏡状の意匠も蛇の「目」の仮面ではないか。笑顔表情の土偶は、死者(特にこども)を送る悲しみの“笑い”の仮面、棺の周りの“花”(歴史は新しい)の様に。

しかし、このような推察も現代社会に感化された“学習”の結果かも知れない。(諸々の霊性を語る“アニミズム”や“神話”の世界も含めて)縄文人も現代社会のトラブル要因(欲)同様、集団として常に発展・拡大を望んでいたのか。1万年もの存続が証されている考古学上の各地の集団は不連続で、限定された縄張り(動・植物同様)があったのでは?採集・狩猟の生活では農業と異なり、交流の機会はあっても生活用具・技術の伝播に限られ」、それぞれ自立した構成員の“持続可能性=生・死”は直接的な願い(祈り)の対象(仮面性)ではなかったかとも考えられる。土器・土偶の発したナゾは深い。

人間の遊びに4つの要素があり、その前提にルール(約束事)があるとする論が記憶にある。特に「競争」や「賭け」、「仮面性」にそのルールが観衆と一体化(見テレル化)し、演出効果を高めるよう設定される。(スポーツ、カジノ、情報、等々)。格闘技ですらそのルールは美しく飾られる(礼儀他伝統に忠実な相撲等)。もっともプロの世界はその全てに金銭がからむ(もちろん芸術の世界も)ので、その高低差(賞金、放映権、施設レベル=入場料他)が、さらに人気(スター)に結びつく。勝負! は欲望、権力や格差の社会と紙一重。“遊び”の魅(魔)力の要因は勝利する当事者になりたい欲(仮面性)をあおる。有史以来、プロの世界全体が“仮面”なのかも知れない。

「多様性を超越するのが芸術」との視点の延長に、作品が展開する「場」(環境)のイメージを加えたい(縄文展示で欠ける美術と考古学並立のスキ間)。筆者の好みでは、以下の実例のように、芸術の自己実現とは、具体的には、人々(社会)には、「ホスピタリティ」(癒し~再生、ホテルとホスピタルの原語という)を、個人には「キモチヨイ」をともなうことが原点と考える。数年来の知人の作品から、

〇 音楽 ピアノ演奏をシャワーのように浴びせ、聴衆個々の感情をベースにして、特定の場(古民家)に“気”を育む。

〇 彫刻 石の彫刻(抽象)を環境(自然)と対比させ、個人の記憶を刻む都市・建築のあり方を示唆。

〇 陶芸 平面(特注タイル)を駆使して既存の常識的、退屈な空間を、利用者がキモチヨイ、本当に楽しい場に再生。

〇 文学・書道 俳句の感動を書道作品に転化、媒介の交感に努める。

〇 絵画 風景画(パステル)に「和み」を意図。自然の風景の中に格差のない“平和”を求める。

他に、

〇 奈良玉置神社の悠久の自然の中の社殿の風景 / 興福寺北円堂の木彫像を主人公にするヒューマンな祈りの場(本来の宗教空間) / 人々それぞれの「記憶」をキーワードに、歴史・風土を埋め、読者の個性に対応した文学(小説)。

筆者は、10数年前「建築を学ぶ」で述べたが、“キモチヨイ”場を求めることがアートを志す人々の基本になると考えている。街中のキモチヨイ建物・風景(場)を求める。写真でなく手描き。絵のレッスンや理屈でなく体験、自分の“キモチヨイ”(ヨリドコロ)はなぜか。直感、好き、嫌い。年と共にヨリドコロは体内化し、仮面も変化する。それでも、ショックを受けるほど感動し、以来数十年、今でも記憶(魂)に刻まれている。(結果的にヨリドコロになっている)のは、〈絵画〉ピカソのゲルニカ〈建築〉コルビュジエのロンシャン教会。

筆者にとって、縄文の土器・土偶は上記に匹敵する感動を覚える。一方、現代の各界のスーパースターの“仮面性”は、先述した“自己実現”そのものに写る。“多様性を超越する”や“世界平和のため”など不自然に思える。ただ人々の“キモチヨイ”ための純なパフォーマンスがあっても良いのでは。

台風の前ぶれの小雨の中、三内丸山遺跡。縄文人の人々を育んだに違いない風景。いつまでもその「気」を感じていたい。

建築美術工芸同人 座かんさい 座長 西村征一郎

( 写真/編集 座かんさい同人 今北龍雄 )

三内丸山遺跡に立つ西村座長


遮光器土偶 (是川縄文館)


大型竪穴住居の内部(三内丸山遺跡)


大型掘立柱建物と大型竪穴住居(三内丸山遺跡)