村野藤吾の残したもの
【第1回村野藤吾建築設計図展カタログ1(1999年)】
経過と研究会
1995年、京都工芸繊維大学に、日本建築家協会近畿支部を通じて、村野・森建築事務所の所有する図面、資料の整理、分類の依頼を受けた。背景諸事情はともかく、日本の著名な建築家の原図の流失の噂に加え、後述するような個人的な長年の村野藤吾の建築への想いで、とり合えずお受けする運びになった。宝塚の倉庫と心斎橋の事務所内の図面や写真パネル等、大小さまざまな資料の整理作業を、夏休みを利用し大教室で開始した。各資料の写真撮影、マイクロフィルム化の作業が進み、夏休み明けには、664点のCH焼4冊の製本として提出することができた。
一方、研究室では、せっかくのチャンスであるから、村野藤吾という建築家を少しでも理解しようという自主ゼミを発足。建築に関する溢れるような情報の渦の中で育った学生が、80年近くも年上の村野藤吾を識ることは、筆者の時代と異なり、以外に容易ではない。ゼミは作品集から著作集、手に入る諸々の関連記事の分析に及んだが、設計図と実体の照合もままならない。さらに整理した図面と建築雑誌、作品集に掲載されている図を比較し、その差異の持つ意味を解明することも容易でなく、次第に空転していった。ところが、先の664点に加え、村野事務所から図面の預託は整理作業が全く追いつかないまま、どんどん進行していった。
1997年1月、幸いにも「松寿荘」(1980)の見学が可能になる。664点の図面中136点を占める作品で、村野藤吾の晩年の代表作であり、スポンサー出光の迎賓館として最善の回答を目指したものと言われる。村野本人も私の全てがここにあると言う。屋根の形を決定するに到る何重にも重なった線の入った図面と現実の照合。門の位置の決定、堀と屋根の高さの関係等々のエスキースの結果を実際に目の当たりにすることに興奮する。
この見学の機会に同行した研究室の桑原年弘君の修士論文をかわきりに、図面の整理をかねた実務の図面の読みとりという、未経験な学生には新鮮な作業を通して、近藤努、森本順子、内田雅章の4人が、それぞれのテーマを選定し、論文を進めることができたのである。(本誌に要約を掲載)
その後、1999年9月現在、約37,000点に及ぶ膨大な図面?資料を受理し、現在も鋭意整理中であるが、あまりのボリュームに作業が追いつかない。整理には慎重かつ、十分な図面確認の能力を要する。又、社会、建築関係者に貴重な資料を少しでも早く公開できることを目標として、1998年夏「村野藤吾の設計研究会」を発足させ、建築界の御協力を仰ぐことになり、学内外に実行委員をお願いした。第1回展覧会の開催日時を今年の11月と定め準備委員会的研究会が見学会を含め都合7回開催され、展覧会、シンポジウムの企画を中心に、未確認なパース資料の特定、大阪そごう増改築計画の分析、関西大学の整備と設計、大ビル社宅の見学会等について発表や意見の交換を行った。現在、展覧会、シンポジウム、出版の企画が大詰めの段階を迎え、村野藤吾のイメージにふさわしく、かつアカデミックな雰囲気を保持でき、学生諸君をはじめ、社会の建築関係者にとって魅力的な催しになることを願っている。
展覧会は、現在大量の図面・資料の整理作業が継続中であることから、今年度はある程度知名度の高い作品に限らざるをえなかった。シンポジウムは、従来の村野を語る世代より一廻り以上若い研究者を中心とし、村野藤吾の設計に関する新たな切り口に期待している。
村野の影響
思えば大学入学以来、建築を志して40年近くになる。我国の近代建築の歴史の後半を共にしてきたようなものだが、未だ志半ばである。村野先生風に言えば、未だ鼻垂れ小僧といったところである。関西で建築を志してきた者にとって村野藤吾の存在は絶大なものであったと思う。もちろん40年前の状況は、大学の図書館に2、3の洋書の建築雑誌、情報としてコルビジェ以外、殆どなかった。学園祭の出品建築模型にライトの落水荘を選んだのはよかったが、わずかの図面と想像力で制作にはげんだ。便所の短辺を1mとし寸法を割り出し、道場の窓ガラスをはずして石膏板を作るところから始めたものだった。しかしすでに村野藤吾の「ドイツ文化研究所(1935)」は、京大病院と共に市電が東山通を走っていた時、車窓の印象として残っている。実物の印象がいかに強く影響するかは、現在でも前川国男のピロティと大庇の京都会館が日本で一番好きな近代建築であると断じてはばからない。同様に佐藤武末の旭川市庁舎の外壁のレンガ色や、ライトの帝国ホテルの光あふれる2階ラウンジ等も記憶に焼きついている。数年前、研究会をもつことになり改めて、村野作品との出会いを考えてしまった。恐らく、1建築家の作品を見る機会をこれ程多く持ったことはない。できるだけ「プランタン(1956)」でお茶を飲んだし、「都ホテル(1939・1960-)」のガーデンプールに泳ぎに行った。「甲南女子大(1964-)」のバザーにも闖入したし、「藤川画廊(1953)」もよくのぞいた。何が興味があったのか、単に知識のためにでないことは間違いないが、どちらかと言えば、階段や手摺のディテールの美しさを真似ようとしていたと思う。当時の甲南女子大の見え隠れするアプローチの魅力もよく語り合った。それでも大阪「そごう百貨店(1935)」は興味がなかったし、今でも大丸の方がよいと思っている。又、仕事の参考に阿倍野の「村野事務所(1970)」の外壁タイル貼だけを見に行ったこともある。「宇部市民館(1937)」まで足を伸ばした。美しいエレベーションだったと思う。後に槇さんの豊田講堂を見た時、何故か「宇部」を思い出した。そして圧倒的であったのが、やはり広島の「世界平和聖堂(1953)」と「日生劇場(1963)」である。建築が人の感性をゆり動かすことができると確信したのは、恐らくこの2つであろうか。「祈」「歓」の具象化とも言える。もっとも、代表的なエレベーション建築である「大阪新歌舞伎座(1958)」や「高橋ビル本社(1970)」「名古屋都ホテル(1963)」等は、以外に思い出すことが少ない。学生時代、双星社竹腰事務所の姫路のセントマリアホスピタルの現場経験をして以来、病院やホテルのホスピタリティという概念に興味があり、関連あるいくつかの仕事の経験がある。そのとき、きまって村野さんに教えを乞う意味で、先の「都ホテル」、「志摩観光ホテル(1969)」、「新高輪プリンスホテル(1982)」等を度々訪れることになった。京都の風致、景観と都ホテルの塔屋のデザイン、客室廊下の雁行のスケールの志摩観、村野アールの新高輪の華麗さ、ホテルデザインの何たるかを学ぼうとした。大阪ロイヤルの現場では吉田五十八の格調ある美意識との差も感じた。一方、東京「千代田生命ビル(1966)」の建築ブロックの自在さと端正なマリオンの美しさ、玄関庇をうける小柱群、塔屋のコールテン鋼に眼を見張った。このように長い時間を経て、村野作品のもつ多くのエッセンスが、私のみならずそこを訪れる多くの人々に刷り込まれていることだと思う。研究会を始めて、村野晩年の小作品に出会うことになった。糸魚川の「谷村美術館(1983)」と小諸の「小山敬三美術館(1975)」、原村の「八ヶ岳美術館(1979)」である。谷村美術館は雑誌で知っていたが、写真では味わえない興奮を久しぶりに覚えた感がある。人気のない糸魚川の駅から車で数分。谷村美術館は、個人的なヒューマンなスケールで迎えてくれた。エントランスから回廊状のアプローチは、恐らく俗界から展示室を切り離す結界を意識させる仕掛けであろう。回廊からみる美術館本体は、雑誌写真の印象がスケールを度外視して仰々しく、西域云々の景観との解説がむなしく、むしろ「梅田換気塔(1963)」のデザインの系統にあると思う。内部は沢田政廣の仏像の展示空間であるが、1体1体の仏像に祈りの場の創造とそれらを結びつける空間の連続性に圧倒される。各仏像のスペースはそれぞれ異なった採光の仕方が考えられ、恐らく彫刻としての像が光を受け闇をつくる、最適の状況が検討され尽くしていると思う。1つの像を見おえたその時に次の空間がいざなってくれる。要するに鑑賞者の期待が、それぞれ固有に空間演出された展示物と共に連続的に高まるような誘導であり、単なる動線計画ではない。さらにそこにはマネキンによるファッションの展示等にかけらも見えないような深い精神性が漂っている。谷村美術館の出口にあたるホールには、この建物の建設記録のコーナーが設けられている。施工図、関連の工事写真含め多数の貴重な資料である。中でも雪の現場での村野夫妻の葛藤の足跡はすさまじい。
図面の解釈
村野藤吾の建築設計図を見る機会が多くなり、今まで抱いていた村野像に変更を余儀なくされている。当初の図面、資料整理の際、村野事務所の竹林さんと親しくお話をすることがあった。最近入所する若者は、すぐ村野の具体的な設計手法を知識として知ろうとする。柱の面は○R、枠の見付は○cm、等々、でもこんなことで村野は理解できない。それは建築の状況に応じて全く異なり、その場に最適な解答を自分の感性で納得いくまで徹底する姿勢だと言われたように記憶している。村野藤吾の図面の収集整理は、単に村野作品のカタログやデータベースづくりではない。これらの数多くの図面から何が読みとれるのか。その設計行為のプロセスに含まれる諸々の知性、感性の痕跡を求めることができるかが重要であって、雑誌掲載の設計図と同じ、設計意図の結末を表明する図面としてだけなら、さしたる価値はないものと思う。先述した通り、学生時代以来、多くの村野作品を体験しているが、そこに到ったプロセスの理解は殆ど無い。先の若者と同様「村野さんならどうするか」という、いわば表層のマニュアル探しに明け暮れていたのかも知れない。1995年以来、図面を通して発見、あるいは確信するに到った私なりの思いを次の3点にしぼって述べる。
『村野藤吾の建築に対する情熱あるいは執念は何であろうか。』
谷村美術館でも触れたように、90才を越え、既に名声を得た老建築家が雪深い現場を何度も訪れている。これは常識的には異様な行為であるように思えるが、私達関西の建築に携わる者の多くは、このドロドロとした設計態度に少なからず影響を受けている。しかし組織事務所でなくても、通常の事務所運営では考えられない。せいぜい建築設計を職能とする人々の倫理規範と考える位であろう。「陰影礼賛」で建築的にも著名な文豪谷崎の小論に「文章読本」がある。記憶違いを恐れずにいうと、日本の文学の系統には、源氏物語の紫式部の系と枕草子の清少納言の系があり、前者を「情」的、後者を「知」的な系とされる。これを私なりに建築の場合に転用するならば、さしづめ「情」的建築家あるいは「知」的建築家ということになろう。こんな単純な分類は許されないが、経験的には、これらの意識は建築家としてそれぞれにあり、その路線通り、あるいは意識的に偏向しようと試みるように見える。直観的に言えば、例えば前川国男は「情」的な建築家であったが、「知」的な理論で日本の近代建築のリーダーシップをとり、吉坂隆正は「情」的建築家で、その通り活躍し、現在も影響を与え続けている。丹下健三は「知」的建築家で、きわめて理性的判断に基づく設計を続けている。そこで村野藤吾は「知」的な建築家であったと思う。しかし彼の指向は、あくまで「情」的、感性にうったえかける建築を試み続けたのでないだろうか。私はここに、ある種のコンプレックスにも似た、「情」的なものへの拘り、執念の原動力をみる。「様式」があれば、「知」的なトレースは当然可能であるが、新たな創造には終着駅がない。階段の手摺の形状を決めるのに、縄を投げ続けさせたというエピーソードがある。オリジナルも偶然からと解することもできるが、それを取捨できる感性的判断が不可欠なことは言うまでもないが、できるだけ多くの時間を費やし、チャンスを持続することが、より良いものに結びつくはずだとする「知」的設計態度であると思う。
『2度と同形は造らない』
村野藤吾の作品集を見ても、その膨大な数の作品に形の類似を見いだすことは困難である。もちろん、形は異なっても、村野の建築には共通したある種の情感が漂っている。しかしその具体的な手法の共通性は、一部のディテールや家具以外明瞭でなく、絵画や彫刻、陶芸等の作家に見る作品の固有の形が見うけられない。唯一、最近まで殆ど存在の知れなかった100戸に近い住宅の平面には明らかな共通性が見られるが、立面、断面図等が不明なので全体像は判じがたい。同形を造らないということは、前述の「知」的判断によることも考えられるが、建築が造られる唯一の環境に正解は1つしかないとする信念に基づくものに違いない。もちろん村野自身も刻々と変化を続けていたことだろうし、世界の建築情報からの引用との指摘も伝えられる。現に関西大学のキャンパスには、どこかで見たような村野作品があるが、千代田生命塔屋のコールテン鋼の慎重な使用と同様、その場所に最適な形を追求する建築家の「持ち駒」が豊富であったと解釈する方が適切であるのではないだろうか。
『村野藤吾の和風とは』
村野藤吾の作風を評価することは、上記を含め非常に難しく、写真集は数多くあっても、写真のようにその解説は表層にとどまっている。建築素材自体は、ごく一般のものを使用しながら独特の村野流にいたる、設計上のポイントは何であろうか。図面から読みとれることは一部に過ぎないが、(1)平面でも、立面でも、形の上でシンメトリーでもよいものを最後に少し崩す。(2)素材を生で使わず、必ず何らかの手を加える。手の加わったものを使う。(3)面取りを含め境界のディテールを、光の状況を判断しアイマイにする。(4)直射日光のようなストレートな採光は好まない。(5)照明器具やドア把手等の個性的な点景を建築に挿入。(6)基本的な建築形態のディテールは極小の寸法に近い。創造された形態、要求された機能に基づく空間、手を加えられた素材が織りなす建築に、ときめきながらも、どこかで出会ったような懐かしさを覚えながらいざなわれているという感覚になる。村野の“根拠”であった自邸の「知」的雰囲気は、誰でも了解できるものである。でもその解明が困難なことと同様、村野の作品に洗練された「和風」を感じている。
建築設計教育との関わり
我国の大学改革の必要性が語られて久しく、各大学では諸々の試行が行われている。一方、大学における建築(家)教育についても、UIA推奨基準をはじめとして、世界に共通する教育方向、教育レベルが検討され始めている。京都工芸繊維大学の建築コースでも、従来の伝統的な教育方法の踏襲の意義を含め、さらなる発展の方向を模索している。なかでも建築設計に関わる実習内容は、入学試験に図画を課していること、1回生から基礎実習を取り入れていることは長い伝統であり、現在も引継がれている。その課題内容は、絵画や立体、グラフィック等の実習に加え、建築基礎実習では、「模写(実際に訪れることの出来る建築対象)」、「スケッチ(京都市内の歴史的建造物や近・現代建築で自分が感動するもの対象)」「自分の巣(簡単な空間設計)」等である。さらに2回生以降、年間約6課題が、それぞれのテーマを持ち出題される。実習の基本姿勢は、10人以下の少数のゼミ方式により、個人の自由な発想と他者の評価を含み、身体で設計を会得する意味で、出来るだけ多くのスケッチ、図面を画くことにある。とりわけ、学生個人にとって、魅力的だと感じる建物や空間を「スケッチ」によって写し取る行為は、建築の発想を逆方向から体で理解する方法であると考えている。同様に、「模写」によって図面の設計意図を読み取ることが可能だと信じている。これは機械によるコピー文化の時代であるからこそ、文字を1字1字、祈りを込めて写しとる写経のような学習に例えることができるかも知れない。
1899年学科開設以来、武田五一の建築教育思想がめんめんと継承されてきた。1926年「建築家になるなら哲学を」の教えのもと京都高等工芸学校(京都工芸繊維大学の前身)を卒業。ドイツ哲学を学んだ後、建築家として大成した白井晟一のごとく、建築設計教育が単なる技術の学習にあるのではなく、「知」に裏づけられた「情あるいは感性」、「人間性」や「美」の習得に黙々と時間をかけ続ける「情」と「知」の融合を目指すべきなのであろう。これは、恐らく21世紀の世界が求める建築(家)教育の基本理念としても欠かすことができないと思われる。この様な建築設計教育の背景として、お預かりする村野藤吾の建築設計図の価値は計り知れないと思う。また、すでに建築界で活躍されている方々にとっても、先輩が何を考え、何に悩み、どのような方法で解決しようと考えていたかを学びとる絶好の機会が生じたと位置づけていただきたい。
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この展覧会を実現する上で、力強く御支援を表明していただき、学外の実行委員をご承諾いただいた方々に厚く御礼申し上げます。同時に京都工芸繊維大学美術工芸資料館、造形工学科の諸先生、研究室の諸君にも多大な御協力いただき感謝に耐えません。
さらに、この機会に、正式に村野藤吾の設計研究会を発足させ、未だ消化されていない図面や資料の数々を、新たな尺度で評価することのできる態勢を整えていくことも、私達の今後の責務であると感じています。国際的な建築家制度の導入が間近に迫った観のある現在、建築教育の柔軟にして多様な展開の一部ともなり、建築設計を志す人々にとって、新たな発見の場ともなる研究会の発展に、いっそうの御理解、御協力をお願いいたします。
(にしむら せいいちろう・京都工芸繊維大学教授)